久しぶりに訪れたムーンペタでの休暇を提案したのは、すけさんだった。
曰く「水の紋章も手に入れた事だし、1日、2日くらいゆっくりしていこうよ」との事である。
始めは反対したもょもとだったのだが、それが勝ち目の無い勝負である事はすぐに分かった。
アイリンがすけさんを支持したのだ。2対1、多勢に無勢である。
元々、口が達者とは言えないもょもとにとって、2人を相手に口で勝てる気はしなかった。
「…分かったよ。それじゃ、とりあえず宿屋に行くか」

それは今に始まった事ではない。
真面目な話ならばいざ知らず、こういう時ほど、すけさんとアイリンの息は合う。
そしてそうなる度に譲歩する羽目になるのがもょもとで、もうそれについては諦めの様な気持ちがあった。
3人で行動を取る以上、仕方の無い事なのだろう。

ただ、3人でいると、こういった意見の対立がつまらない揉め事にまで発展し難くて良い。
1対1で意見が分かれたとしても、3人目がどちらに付くかで勝負が決まってしまうからだ。
今回は負けてしまったもょもとであるが、今までには幾度と無く、それで自分の意見も通してきた。
何だかんだと言ったところで、この状況は健全なのだろう。
議論に負けた時のもょもとは、そう考える事で自分を納得させる事にしている。



森に囲まれた城塞都市であるムーンペタで唯一の宿屋「紅葉の木陰亭」は、その南側の市壁近くに立っている。
その為、部屋によっては風通しの悪い部屋が幾つかあって、もょもとはそれがあまり好きになれない。
それは、まだすけさんと2人で旅をしていた頃にこの宿屋に泊まった際、充てられた部屋が風通しの悪い部屋だった所為でもある。
当時は季節が春から夏になろうかという頃で、また、様々な意味で、余裕の無かった時期でもあった。
ローレシアやサマルトリアよりも遥かに南に位置するムーンペタは蒸し暑く感じられ、とにかく寝苦しかったのを覚えている。
隣であっさりと寝入っていたすけさんの事が、不思議に思えて仕方が無かった。

ただ、ここの食事は美味しいと思うし、ローレシアやサマルトリアでは採れない物の中には、気に入った物が幾つかあった。
いつだったか、そういった話をアイリンにした事がある。
それを聞いたアイリンが
「当然じゃ。ムーンブルクの国は自然が豊かなだけではなく、気候の変化に富んでおる。
それに、ムーンペタは森の中にあり、川も山も近い。本当に色々な物が採れるのじゃぞ」
と、胸を張っていたのが印象的だ。

…そうだ、あれは確か、ドラゴンの角と呼ばれる塔に向かう途中の砂漠での事だ。
まだアイリンがムーンブルク城壊滅によるショックを引き摺っていた頃の事だ。
落ち込んでいたアイリンを慰める為にと話し始めたのがムーンペタの話だったのだ。
それまで落ち込んでいたアイリンが急に元気になった事がもょもとには可笑しく感じられて、その時の元気一杯なアイリンがとても可愛らしく思えて。
そして一通りのお国自慢が済んだ後でまた失われた自国に思いを馳せて泣き出してしまったアイリンを前に、自分の浅はかさを心の底から呪ったもょもとだった。



今回、もょもととすけさんに充てられた部屋は、またも風通しが悪かった。
逆に、その向かいになったアイリンの部屋は、実に風通しの良いものだった。
確か、アイリンと合流した後でここに泊まった時も、アイリンの部屋の風通しは良かった様な気がする。この違いは何なのだろう。
それらによるちょっとした不快感をすけさんとアイリンに向けてしまいそうになった自分を全力で否定して、荷物を置いたもょもとは部屋の椅子に腰を下ろした。
「さっき、お茶を頼んでおいたよ。多分、もうすぐ来るんじゃないかな」
すけさんが机を挟んだ向かいの椅子に腰を下ろして言う。
「あぁ、助かる」
丁度、喉が渇いていたところだった。
すけさんは、こういう気の遣い方が上手い。そうもょもとは思う。これは自分には出来ない事だと思うし、アイリンの場合は往々にして訳の分からない事になるし。

すけさんは常々、「自分は何も出来ない」と感じているらしいのだが、そんな事は無い。
本人が考えているよりも遥かに戦力になっていると思うし、戦闘の場以外でも、すけさんのさりげない気遣いは、旅を円滑に進めてくれる。
ただ、それらはあまり目立つ類のものではないというだけの話だ。

少し経ってお茶が運ばれてくると、それに釣られる様にアイリンも部屋に入ってきた。
注がれたお茶をみんなが一口啜って、大きく溜息を吐く。それでようやく先の戦闘による緊張が解けて、体が椅子に沈み込むかのような脱力感を覚えた。
「落ち着くのう」
アイリンの間延びした声が、リラックスしている事を伝える。
それを受けて口を開いたのはすけさんだ。
「それじゃ、もう昼にしてしまおうか?ゆっくり食べてさ、今日はのんびりしようよ」
「そうだな、それもいい」
「私も賛成じゃな」
本当にすけさんはこういう気遣いが上手いな。もょもとは改めて、そう思った。



久しぶりにとるムーンペタでの食事は、やはり美味しい。
前回とは季節が変わっている事もあって料理の印象がやや変わっていたが、
「素材の味を活かした素朴な料理」という基本的な部分はそのままで、それがもょもととすけさんには嬉しかった。
地理的な条件が異なるローレシアやサマルトリアでは、こういう料理は稀だからだ。
また、アイリンにとっては馴染んだ味である。
それは、2人が感じたものとはまた別の理由で、嬉しいものだった。

ムーンペタでは葡萄酒も美味しい。
そもそも、ローレシアとサマルトリアへ葡萄酒を輸出していたのは他でもないムーンブルクである。
流石にその産地ともなれば、葡萄酒の味わい方、楽しみ方を心得ているのだ。
中でも2人は、泡の立つ葡萄酒が気に入っていた。
泡の立つお酒といえば自国でも麦酒が造られているのだが、それとは異なる、透明感のある爽快な味わいが魅力的なのだ。
「泡がはじければ、場もはじける。」
誰かがそんな事を言っていた気がするが、確かに間違ってはいないと思う。
飲む人の気分を明るく開放的なものにしてくれるこのお酒の前に、いつの間にかもょもと達の会話も弾んでいた。
こういった時には食欲までもが釣られてしまうのだろうか。
それとも、ムーンペタの素敵な料理の誘惑には抗えないという事なのか。
気が付けば食べ過ぎてしまっていた3人である。
「しまった…昼からこんなに食べてしまうとは」
「やっぱり葡萄酒は美味しいな…それに、川魚と茸の包み焼きには驚いた。あのハーブの香りにはやられたよ」
「無花果のケーキがあるとは迂闊じゃった……柘榴のソースまでかかっていては…食べない方が罪というものじゃ……」

(…でも、たまにはこんな風に、怠惰な満足の仕方をするのも良いな)
口にこそ出さないが、3人の思惑は一致していた。



部屋に戻ったもょもとは、もう一度注文したお茶を飲みながらのんびりと椅子に座って、何をするでもなくぼんやりと天井を眺めていた。
まだ少し、お腹が苦しい。
すけさんは食堂に残ってお茶を飲むと言っていた。
多分、周りの世間話にでも耳を傾けているのだろう。
もしかすると、どこかの輪に混ざっているのかも知れない。
すけさんなら、服装さえ変えてしまえば庶民の輪の中に入る事も容易だろう。
アイリンは散歩をすると言って外に出て行った。
財布も持たなかった事を考えると、すぐ近くにいるのだろう。

もう一口を飲もうと無意識にカップを取って、そこでカップに小さく描かれたカエデのマークが目に付いた。
この宿屋の名前に因んでの事なのだろう。
「モミジ」というのはカエデの一種なのだと、以前、立ち寄った際にここの主から聞いた。
しかし、考えてみるとこの宿の周りにはカエデの木は見当たらなかった気がする。
正面に無かったのなら、裏庭だろうか?
もょもとは腰を上げ、窓に近寄って顔を出した。
すると、モミジを探すよりも早く、裏庭にアイリンがいたのが目に付いた………いや、目を奪われたと表現する方が正しい。
イエロー、グリーン、オレンジ、ブラウン、ヴァーミリオン……
庭一面を彩る幾通りもの鮮やかな色の中に、アイリンが座り込んでいたのだ。
今までに見た事の無い圧倒的な光景だった。
さながら、色の洪水といった風である。
もょもとは目を奪われ、そして言葉も奪われた。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
ようやくアイリンがもょもとに気付いて、元気よく手を振る。

「もょ!」
それがまるで呪いを解く呪文であったかの様に、もょもとは我に返った。
しかしまだ、目の前に広がる光景が何なのか理解出来ていない。
「…どうしたのじゃ?」
アイリンは元気よく振っていた手を止め、不思議そうな顔をした。
「…いや、なんだ?それ」
自分でも訳の分からない事を言ってしまったと思った。
一体、何を指して「何だ?」と聞いたのか。
しかし、言葉を発したもょもと自身が理解していない「それ」を、アイリンは理解したらしかった。
「なんじゃ。もょ、モミジを知らんのか?」
それを受けて、今度はもょもとが理解した。
アイリンの周りを一面に彩っているそれが「モミジ」なのか。すると、その辺りの木が全てモミジなのだろうか?
「そうじゃ。とても綺麗じゃろ?ここの紅葉は国中の評判なのじゃぞ」
そう言って、アイリンは心底嬉しそうな表情で、周りのモミジに手を伸ばす。
それにしても、カエデにしては妙に小さいんだな。
落ち着きを取り戻しつつあるもょもとが次に考えたのは、そんな事だった。
「…そうじゃ。もょ、そこでちょっと待っておれ」
何かを思いついたらしいアイリンはどこまでも楽しそうに言うと、周りのモミジを集め始めた。
そして、ローブの裾に近い部分をつまんで持ち上げる事で篭の様にすると、そこに集めたモミジを載せたまま、建物の正面に回って行った。
アイリンはあれをどうするつもりなのだろう?まさか、持ってくるつもりなのか?

改めて、裏庭を眺める。
ローレシアのカエデはこうも鮮やかな彩を見せる事があっただろうか。
少し考えて、しかしそれは否定せざるを得なかった。
確かに紅葉はするのだが、ここまで色鮮やかにはならないだろう。
そんな事を考えていると、部屋のドアをノックする音がした…アイリンか?
まあ、開けてみれば答えは分かる。そう思ってドアに近付くと、ドアを開ける前に向こうから答えが聞こえてしまった。
「もょ!早くドアを開けるのじゃ!」
いつになく、アイリンが子どもっぽい声を上げる。
その声を聞きながらドアを開けたもょもとはもう一度、アイリンに驚かされる事になった。
ドアの向こうには、本当にモミジをローブに載せたままのアイリンがいたのだ。
イエロー、グリーン、オレンジ、ブラウン、ヴァーミリオン……
秋の色をローブ一杯に湛えたアイリンの、まるでモルガナイトの様に綺麗なピンクの髪と、ガーネットの様に深く澄んだ瞳。
またしても、言葉に出来ない。

「どうじゃ。綺麗じゃろ?」
反応に困るもょもとは、ローブを彩るモミジとアイリンの顔を交互に見ながら
「ああ。…綺麗だ、凄く。」
またもおかしな答え方をしてしまう。
「でも、こんなところに持ってきてどうするんだ?こんなに」
言ったところでその言葉が間違いだったと感じたのは、それまでモミジと一緒に溢れんばかりの笑顔を湛えていたアイリンが、途端に怒った様に頬を膨らませたからだ。
「モミジを見た事が無いというお主の為に、もっと間近で見せてやろうとした私の優しさが分からんか!」
言いながら、アイリンは部屋の中に入ってくる。
もょもとは、またしても自分の浅はかさを呪うばかりだ。
「モミジの季節はとても素晴らしいものなのじゃぞ。
色付いた無数の葉が散るところなどは、秋の色が雨となって降り注ぐようでな。
その頃のモミジ並木やここの庭などはもう、この世の光景とは思えぬほどじゃ」
部屋に入ってきたアイリンは言いながらお尻でドアを閉め、数歩の距離を置いた所でもょもとの正面に立った。
「それを今から見せてやろうという事なのじゃ。良いか?一度きりじゃぞ」
それまで怒った様な表情でいたアイリンが、今度は悪戯っぽく笑みを浮かべている。
「え?それってどういう…」
「そりゃあっ!」
少しだけ飛び跳ねたアイリンは下着が露になるのも構わず、ローブをつまんでいた両手を大きく頭上に払った。
ローブの上にあった沢山のモミジが、もょもとの、アイリンの頭上に舞う。
それは達成感の所為なのだろうか。
舞い散るモミジの中で、今度はいつも通りに自信満々の笑顔を見せるアイリンである。
もょもとは、そんなアイリンを呆然と見ている。
その華奢な体はしかし、不釣合いな安心感の様なものを感じさせ、健康的な肌の色をした顔には、昼食の葡萄酒が頬紅を添えていた。
深く澄んだ真紅の瞳は、先程よりもずっと近い位置で無邪気な光を放っている。
「凄く綺麗でさ…言葉に出来ないんだ」
それは何を指して言った言葉だったのか。
しかし、その言葉にアイリンは満足したのだろう。表情は更に輝きが増した様だった。
「そうか。それなら良かった」



アイリンの視線が眩しすぎて、たまらずもょもとは視線を逸らした。
そして、それを誤魔化す様に言う。
「ムーンブルクってさ…良い国だな」
「そうじゃろ?」
アイリンは、いつまでも笑っていた。



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