ここはハーゴンの神殿の中。
辺り一帯は深い霧に包まれていた。
前も後ろも分からなくなる程、この霧は行く手を阻む。
視覚的なものだけでは無い。私は何か……邪悪な物を感じていた。
「もょ! すけさん!」
いつの間にか二人から離れてしまった。
――おかしい。さっきまですぐ側にいたはずなのに……。
この霧には魔力的な何かを感じる。
呪文の一つ、マヌーサとは違う。心の奥にまで浸透してくるような感覚。
「二人ともどこじゃ! 私はここにおるぞ!」
気がつけば一歩も動けなくなってしまった。
共に旅をしてきた二人がいなくなり、私の中で不安が広がっていく。
この霧のせいだろうか? 胸の鼓動が止まらない。恐怖……違う、得体の知れない何かが、私の心の中で渦巻いていた。
深い霧がより深くなっていく……。
次第に何も見えず、何も聞こえなくなってしまった。
そして心の中で渦巻いていた何かが、だんだん分かってきた。
――これは……安らぎ? 暖かな思い出と幸福感。……なぜ?
なぜそんな物が沸いてくるのか分からない。
ハーゴンの神殿の中だ。恐怖や憎悪のような忌むべき物が心を蝕むのではないのか?
私はこの時気がついた。
邪悪な物の耐性はあっても、こういった善への耐性があまり無い事に……。
――この霧は……私の味方? 私の心に触れてくるのはなぜ……?
「……リン」
私の名を呼ぶ声が聞こえる。
もょやすけさんの声ではない。
「……アイリン」
声のする方へ目を凝らす。
すると、霧は段々と晴れていった。
見慣れた景色が広がっていく。
「まさ、か……」
ここは私が育った城。ムーンブルク城の中だった。
あの懐かしい風景に、豊かな自然の香り。
そして私を呼ぶのは――――。
「父上……!」
霧が完全に消滅すると、私が立っている場所は間違いなくムーンブルク城。
そして目の前にいるのは亡き父、ムーンブルク王。
「そんな……なぜ? あの時、確かに…………」
お父様はあの頃と変わらぬ笑顔を私に向けた。
「どうした? 怖い夢でも見たのか?」
――夢? お父様が死んでしまった事も、城が燃えてしまった事も、全部夢だった……??
周りはあの頃と寸分も変わっていなかった。
そこにいるお父様も、城の兵士達も、この国の人達も…………。
ここには私が無くした物、求める物で溢れていた。
「ほら、新しく仕立てたドレスだよ。着替えてお茶にしよう」
そう言って、お父様は新しいドレスを手渡した。
お父様の優しい笑顔も、その声も、お父様そのもの。
大好きなお父様。
古くとも私達を守ってくれるムーンブルク城。
そしてそこに住む人々の笑顔。
あの頃の懐かしい空気。
失ったはずの幸せが、ここにはある。
「何を泣いておる? お前は幸せであろう?」
私はいつの間にか泣いていた。
溢れてくる涙と共に、心の中から幸せも溢れていた。
優しく私の肩に触れるお父様の手も、とても優しくて暖かい。
「……お父様。ここには……何があるのですか?」
お父様は私の頭を優しく撫でながら答えてくれた。
「全てじゃ。お前の望むもの全てがある」
「私の望む……全て?」
私は共に旅をしてきた、もょとすけさんの事を思い出した。
涙を拭い、それでも溢れてくる涙を再び拭った。
▽△
「この『ルビスのお守り』、アイリンが持ってろよ」
「……え?」
「それは僕も賛成だね」
私はもょからルビスのお守りを受け取った。
「なぜじゃ? もょが持っていた方が安全じゃろう?」
肉体的、体力的にも、もょの生存率が一番高い。
無論、私とて棺桶に入るつもりはないが……。
「……信じてるから、さ」
もょは恥ずかしそうにそう言った。
その言葉に、すけさんも頷いた。
「僕も信じている。アイリンを」
「もょ……。すけさん……」
胸の奥が温かくなるのを感じた。
信じられる。信じてくれる仲間がいる事に……。
「私も、二人を信じておるぞ」
――私にとって、もょとすけさんは、信じあえる大切な……仲間じゃ。
▽△
「アイリンや……?」
お父様の声で我に返る。
ここには全てがあるとお父様は言った。
けれど……、ここには私の大切なものが欠けていた。
「…………お父様、……折角ですが」
「ん?」
「私……これからハーゴンを倒しに行くのです。この幻を抜けなくては……」
道具袋からルビスのお守りを取り出す。
「それは勇者として、……か?」
それでも、お父様は私に笑顔を向けたままだった。
それが胸を締め付ける。でも、私はお父様の目を真っ直ぐに見た。
「……いいえ。人として、です」
ここにあるのは過ぎ去った時間。
戻る事の無い、存在しないはずの世界。
そして……私の中の大切な思い出。
――でも、……私の心の中にあるのは、それだけじゃない。
果てしなきセカイ。
平和を望む人達。
ムーンブルクの再興。
そして、……大切な仲間達。
私はルビスのお守りを掲げた。
光が私の周りを中心に広がっていく。
「アイリン!」
――お父様。その声も、その優しい笑顔も、その温かさも……。全部、私の心の中にあります。
その心を胸に、私は先へ進まなければならないのです。
でも……幻でも、偽りでも……また逢えて嬉しかった……。
霧が一気に晴れていくと、近くにはもょとすけさんがいた。
「お? な、なぁ……オレ、今――――」
「幻だよ。アイリンが破ってくれたみたい」
「うむ……」
涙を拭い、私は頷いた。
すると二人は私の所へ来て、心配そうに私を見る。
私は何も言わず、二人の手を取った。
変わらない世界が続くと思っていた。
でも、それは変わってしまった。
唐突に、全てが失われた。
それから私は、二人と出会った。
共に旅を続け、苦楽を共にした。
いつしかそれは何物にも変えられない、私の大切な物となっていた。
そしてこれからも……私達は大切な物を手にするだろう。
「もょ、すけさん…………」
私はその存在を確かめるように二人の手を握ると、二人とも優しく握り返してくれた。
それが嬉しくて堪らなかった。
「な、何だよ?」
もょは恥ずかしそうにそう言うと、私と目を反らした。
「どうかしたの?」
すけさんは心配そうに尋ねてきた。
「――何でもない。なんとなく、こうしたかっただけじゃ」
そう言って二人に笑顔を向けた。
心の中が幸せで満たされていくのを、私は感じていた。
――この想いを、この心を……一生忘れない。
私はこの時、そう誓った。
お父様との思い出と、大切な仲間。
そして、私自身のために…………。
アイリンの心・完