私説・蘭学事始

登場人物紹介

玄白杉田玄白(すぎた げんぱく) 1733年‐1817年
本名は翼(たすく)。代々続く小浜藩医の家系に生まれ、本人も小浜藩の侍医となる。
実質上の『解体新書』製作プロデューサー。発行に際して編纂と実務のほとんどは彼が行った。
好奇心が強く、西洋の文物には興味津々。オランダ語は苦手ながら漢文は得意だったらしい。社会貢献に対する意欲が強く、後進の育成にも積極的で、のちに開く私塾からは多くの蘭学者を輩出した。彼の学統を受け継いだ人物らの手により日本に西洋科学の素地が生まれ、後の近代化の一翼を担った。

前半生は病弱だったが、当時としては驚異的な85歳まで生きた。明治四十年に正四位が贈られている。

良沢前野良沢(まえの りょうたく) 1723年‐1803年
本名は熹(よみす:「喜」に「れんが」)。豊前国中津藩医。
1769年、47歳にしてオランダ語の学習を志し、晩年の青木昆陽に師事。昆陽が生涯かけて得た西洋知識を授かったその翌年、長崎へ遊学。百日間という短い期限にも関わらず、精力的に通詞らから語彙を吸収した。『ターヘルアナトミア』翻訳の主力…というより、読み取りはほぼ彼の知識頼みだった模様。
学者的気質の持ち主で、高潔が過ぎてかなりの偏屈だったのは間違いないらしい。

『解体新書』刊行後は病気と称して門を閉ざし、洋書翻訳に明け暮れる日々を送る。81歳という長寿でこの世を去った。

淳庵中川淳庵(なかがわ じゅんあん) 1739年-1786年
本名は鱗(りん)または玄鱗。若狭国小浜藩医で、玄白の後輩。蘭方医であり本草学者。
諸物産に興味があり向学心が旺盛で、積極的に色んな学者との交流を持っていたらしい。珍しいものや精巧な機器に興味を持ち、自らも工夫を凝らして製作、1764(明和元)年に平賀源内と共に火浣布(不燃性の布、石綿)を、翌年には寒暖計(温度計)を完成させた。『解体新書』出版後の1776年にはスウェーデン医師のツュンベリーと会話・師事して、「彼はよくオランダ語を話す」と評されている。

『和蘭局方』を訳しかかるも、膈症(胃の腫瘍)を患い、道半ばで病没。享年48。

甫周桂川甫周(かつらがわ ほしゅう) 1751年‐1809年
本名は国瑞(くにあきら)。名門医家の跡取り。桂川家四代目。
奥医師の父からオランダ語と蘭方医学を学び、24歳で自身も奥医師に、33歳で法眼に、44歳で医学館の教授となる。ツュンベリーの著作に名前が載っているため、その名は中川淳庵と共に海外でも知られていたらしい。漂流した後ロシアから帰還した大黒屋光太夫の経験談を『北槎聞略』としてまとめたものが有名。また、通人としても名を馳せていたらしく、江戸の十八大通に数えられる。

初めて顕微鏡を使った日本人でもある。58歳で歿。甫周くんの死因をご存知の方はぜひご一報ください。

源内平賀源内(ひらが げんない) 1728年‐1780年
本名は国倫(くにとも)。江戸中期の誇るハイパーメディアクリエイター。江戸のダ・ビンチ。
讃岐国高松藩に生まれ、正々堂々と脱藩(家督は放棄)。江戸に出て、火浣布、寒暖計、万歩計、磁針器の発明やエレキテルの復元を果たす。蘭学、本草学、地質学、文学、陶芸、油絵といったあらゆる分野で超人的多才ぶりを発揮し時代の寵児となる。珍しいもので人を驚かせるのが好きだったらしい。

晩年は不遇で、酔って勘違いから殺人を犯し、破傷風にて獄死。葬儀を行ったのは玄白で、「あなたは変わった人で変わったものを好み、変わった行いをするが、死ぬ時くらいは普通に死んでほしかった」と彼の死を嘆いた。

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