私説・蘭学事始
小田野直武コメント


後書き

 始めに、エピローグAの補足をさせてください。ここだけは一気に読んでもらいたかったので注釈を入れませんでした。
 ・杉田廉卿は玄白の曾孫娘の婿なので、玄白との血の繋がりはありません。
 ・『蘭学事始』は福沢諭吉が刊行した後、1890年(明治二十三年)に日本医学会から菊判洋装本(諭吉が出したのは木版和本でした)として再販されています。そして1930年(昭和五年)に岩波文庫化され、これで大いに普及したようです。岩波文庫は今も昔も強いですね。


 さて、後書きに入ります。とにかくこの作品、誰かに見せて感想を貰いながらとかではなく、ひたっすら孤独に製作を進めていたので体感的に長かったです……。普段サイトで皆様から頂く応援がどれほど力になっていたかを思い知りました。いつもありがとうございます。  構想段階を含めると約2年10ヶ月、総作画枚数110枚+αで中断期間もひっくるめて2年ほどかかりました。ひとまず無事に終えられてホッとしています。
 この作品の目指した所は「歴史に興味のない人から歴史好きな人まで楽しめて、なおかつ知的好奇心が刺激されるマンガ」だったのですが……はてさて、どこまで達成できたものか。

 本作開始の動機は、ドラクエ2を更新停止にしている間、絵板漫画の描き方を忘れないように何か白黒で描こう、と思ったことです。遊び人シリーズは漫画形式ではないので、セリフ入れやコマ割の感覚を忘れると再開のときに厄介だと思いまして。
 その上で題材を江戸中期の蘭学者にした理由は、その時にたまたま読んだ『蘭学事始』が面白すぎたからという一言に尽きます。さらに『蘭学事始』を公刊したのが福沢諭吉だと知ったときに「そんな関連しびれるに決まってますがな。こらもう漫画化するしかあらへんがな」と意志が固まりました。元からモチベーションは高かったのですが、今思うとこれがダメ押しでしたね。思いがけない所で先人達の関わりを発見すると、心の底から興奮します。
 何より、彼らの翻訳事業が西洋近代科学の日本における端緒であるというこのロマン。腑分けの前日、もしも玄白が良沢に知らせていなければその後の近代化にも影響していたかもしれない……と思うと胸の震えが止まりません。彼らの育てた人材が日本に蘭学の素地を作ったことが大きく見れば後の明治維新にも繋がるわけですから、歴史って面白いものですね。

 シリーズはひとまずここで区切りを迎えますが、蘭学者関連では描きたいエピソードが沢山あるので、いずれまた番外編で描く機会があればと思っています。前野良沢はオランダ語が堪能、と聞きつけた幕府が良沢にラテン語の翻訳を命じるという空前絶後の無茶ぶりの話なんかもあったり(笑)。しかも、どうにかこうにか訳してしまう良沢さんクオリティ、という……! 流石にラテン語は厳しかったらしく、オランダ語のようにはいかなかったようですが。

 気がつけば思い入れの強い作品となっていたので書きたいことは多いのですが、あまり長くなってもいけないのでこの辺にしておきます。

 『私説・蘭学事始』を読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。
 題材に取らせて頂いた蘭学者の皆様方には平にご容赦を乞わねばなりませんが、物語の中の「玄白」や「淳庵」と共に少しでもワクワクして頂けたなら幸いです。

 2012年12月20日 伊都 拝      (2013/03/14公開)

 ※もしこの漫画が楽しめなかった方はすみません。それは私の表現力が及ばないからであって、玄白先生の『蘭学事始』は本当に面白い作品だということを最後に付け加えておきます。

 


参考文献紹介

片桐一男全訳注(2000) 『杉田玄白 蘭学事始』 第二版, 講談社, 250p.,(講談社学術文庫,1413)

杉田玄白の回顧録『蘭学事始』の現代語訳です。解説と資料も豊富で、主にこの書を繰りながらマンガを描いていました。原文もちゃんと載っているので、そちらを見ると比喩の上手な玄白自身の言葉がそのまま伝わります。もともとはこの本を読んで「うおおおお漫画化してええええ!!」と思ったのがこのシリーズを描き始めた動機ですので、読み物としてもすごく面白いです。読むと「学ぶこと」に対して真摯になれる気がします。

酒井シヅ全訳(1998) 『杉田玄白 新装版解体新書』 第七版, 講談社, 256p.,(講談社学術文庫,1341)

『解体新書』の現代書籍化です。資料を探していてこれを見つけたときは「講談社学術文庫さん流石やでぇ!一生ついてくでぇ!」と思いました。小田野直武の描いた図も全て記載されています。通読すると、辞書もロクにない状態から全編を訳したという事実に改めて溜め息が出ます。偉業、まさに偉業。ちょくちょく「翼按ずるに〜」と玄白の考察が入るのですが、東洋の医学知識しかなかった玄白らがなんとか西洋医学の知識を消化・理解しようと必死にもがいている感じが伝わってきて、とても興味深いです。

岩崎克己(1996-97) 『前野蘭化(1)(2)(3)』 平凡社,  323p, 324p, 269p.,(東洋文庫,600,604,612)

おそらく唯一にして最大の、前野良沢を主題とした研究書です。前野良沢の生涯、蘭語研究の動機、業績、はたまた当時の通詞がどれほどのレベルであったか、成業の要因は何か、解体新書にはどんな意義があるのか等等があくまでも客観的に語られます。それらの情報が活かせているかは別として、本マンガの製作に大いに役立ちました。学術書というのは純粋な知識の固まりという感じでゾクゾクしますね。

北島正元(1966) 『日本の歴史(18) 幕藩制の苦悶』 中央公論社, 509p.,(日本の歴史)

日本の通史をまとめたシリーズなので、『解体新書』に触れているのはほんの少しですが、そのぶん俯瞰的に成業の意義をまとめてあります。すなわち、『解体新書』の発行は医学のみならず、日本の近代科学全体に画期的影響を及ぼしたが、その最大の意義は蘭学が民間に根を下ろし、各部門に分かれて一人歩きをし始めるための糸口をつくったことにあった、と。今は亡き中央公論社から出ていた名著で、どの時代でも分かりやすく綺麗にまとまっています。少し古いですが歴史好きなら読んで損は無い超オススメ本。

西和夫(2004) 『長崎出島オランダ異国事情』 角川書店, 230p.,(角川叢書)

「カピタンカピタンというけれど、出島に来ていたオランダ人達は一体どんな暮らしをしていたんだ?」という疑問から読んでみた本です。内容をマンガに反映させることはあまり出来ませんでしたが、時代背景を掴むのに役立ったので参考文献として載せておきます。オランダ船は予告なしで来るので、オランダ商館のオランダ人たちは毎日海を眺めて船を待つのですが、船が来るのが一年に一回だったり、ひどい時は四年に一回だったりするので、商館の人々の暇の持て余しっぷりが凄まじい。その割には1798年の出島大火の後、カピタンの部屋の再建は1809年になってから行われた(費用面で折り合いがつかなかったらしい)とかで、その11年間商館長は部屋なしだったのかよ、とか色々衝撃です。

吉村昭(1976) 『冬の鷹』 第三十七版, 新潮社, 361p.,(新潮文庫,よ 5 5)

前野良沢を主人公とした小説です。小説を参考文献に載せるたぁどういう了見だ!?って感じですが、実際のところ参考になったので。この本すんごく面白いです。そしてためになります。作者の吉村昭さんは執筆に入る前に綿密な下調べをすることで有名な作家さんなのですが、やはり考証に基づいたものは説得力が違う、と実感します。私も自分なりに多少かじってから描き始めましたが、読むたびに唸らされてばかりでした。『蘭学事始』に記載されていないエピソードや、後世の研究で確証の得られた以外の部分では、なるべく展開が被らないように気をつけたつもりです。

菊池寛(1988) 『菊池寛 短編と戯曲』内、『蘭学事始』 文藝春秋

こちらも『蘭学事始』を小説化したものなのですが、短編なので要所のみでサクッと読めます。『蘭学事始』に載っている話に、作者による人物解釈を何気なく絡めるのが上手いなぁと感心しました。まさに換骨奪胎、自由自在。玄白視点で良沢の堅物ぶりが事細かに描写されています。ただし甫周くんは一切カットという冷遇ぶり。青空文庫に入っているので、興味のある方には是非読んでみてください。

“Ontleedkundige Tafelen” 慶應義塾大学

慶應大の学術情報リポジトリ、KOARAが公開している『ターヘル・アナトミア』です。

 

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